「阿波木工物語」―(5)木地出荷から完成品に移る |
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現在の徳島の風景から「阿波踊り」 |
大和町、安宅町に住む佐藤国太郎、東条房助、郡磯太郎の三氏が鏡台の製造を手がけ、はじめは木地のまま大阪に送り、それを大阪の業者が仕上げて各地に売っていました。 当時の鏡台の製法は、全部手工仕上げで、木挽きが原木を板に挽き、それを使っていたようです。明治42、3年頃、安宅町に住む郡忠次氏が鏡をつけて仕上げ加工をし、県外に売り出しました。明治の終わりから大正にかけて、多くの職人は大阪へ鏡台の製造技術の習得に行っていたようで、それらが帰ってきて新しい鏡台を作っていたようです。明治43年から大正初年頃に、鏡台木地業者から分業して、たて、わくを専業とする者が出てきました。 明治40年頃の鏡台の種類は、6種ありました。三つ抽出、四つ抽出、四本、割本、六つ抽、七つ抽出で、鏡の大きさは、幅六寸、丈八寸が普通でした。上等品としては、幅八寸四分、丈一尺二寸三分でした。木地のままでの出荷はこの頃までで、以後阿波鏡台は完成品として移出されるようになりました。 大正時代頃の鏡台は、箱型となり、平台の三つ抽出、四つ抽出の2種類になりました。柱が台の上につけられるようになりました。大正11年末には、福島町の河野義栄氏が、鏡台の塗装業を始めました。大正9年頃、大阪の阿波座で新丈菊之進という人から、鏡台塗装を見習って帰り、通り町の馬場源一商店で始めたといわれています。 昭和に移ると分業体制は確立し、鏡台の型も両山、片山、箱型の3種となり、鏡のふちもまるくするようになりました。昭和初年頃には洋鏡台ができ、郡忠次氏が静岡の製品を改良して売り出しました。昭和2,3年頃に佐野光次郎氏がプレーナー、焼盤などを静岡の服部木工機械店より購入し、同店の職人5名が来て、一ヶ月間かかって据え付けたといわれています。昭和10年頃の鏡台生産額は年間135万円にものぼり、西日本を中心に、朝鮮、中国、満州にまで移出しました。 戦時中は、原料が配給制となったため、老人や女子が、安宅の荒谷塗装店で製造を行っていましたが、仕事は午前中分くらいしかなく、戦災まで細々と続けていました。20年の10月頃には鏡台製造もぼつぼつ再開され、22年春には北村金次郎氏が杢張りをはじめ、同じ頃鏡台の負い売り(一本売り)がはじまりました。当初は県内で米と替えていましたが、加工屋のなかには、販売員を使って、中国、四国、九州方面にまで売り歩いた者もありました。 25年頃からは機械化が進行し、26年には三面鏡の製造がはじめられました。
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−徳島の木工− |