TOPページへ

「阿波木工物語」―(6)四尺タンスで本格的移出

現在の徳島の風景から「阿波踊り」

タンスは旧藩時代から製造されていましたが、明治25年になって大工島(現在の大和町)の福本増吉氏が、神戸、多聞通りの丸善との商談がまとまり、初めて県外に出荷しました。しかし、本格的になったのは、明治35年7月に、大工島の浜口五郎氏と南福島の山添一郎氏が大阪に移出するようになってから後のことです。

それも、明治時代のタンスはすべて間ダンスであったため、盛んになったのは大正時代に四尺ダンスができるようになってからです。

徳島、和歌山あたりのタンスは、当時大阪には荒仕上げで出し、これを大阪の業者が仕上げて売っていました。地元消費については完全に仕上げていましたが、杉前の雑木タンスで十分売れたといわれます。

大阪では、胴はモミでなければ売れないという状態でしたが、同時にこのモミを使った阿波タンスは、大阪において非常に高い評価を与えられていました。

洋たんすの製造は、大正末期に家具屋が行っていましたが、次第に和ダンス屋が手がけるようになりました。タンスの杢張りは福島新橋の椎野文太郎氏が初めて行いました。整理タンスは昭和15,6年頃から始まったようです。

前材料は、せん、きわだ、しおじ、くわなどでしたが、特にせん、きわだが主流をなし、昭和に入ってからは、なら、とちが進出しました。最も古くは、けやきでした。

タンスの型は、だいたい、

(1)単品(江戸っ子)・・・明治時代

(2)三つ折(間タンス)・・・明治時代

(3)三つ重ね(間タンス)・・・明治時代

(4)四尺普の四枚戸・・・大正初期

(5)五重タンス・・・昭和初期

(6)衣裳タンス・・・昭和5,6年

(7)七重タンス・・・昭和10年頃

(8)四尺帽子入れタンス・・・昭和11,2年頃

(9)上衣裳・・・昭和15,6年頃

というように変化してきています。

この間、木工業者の販路開拓も積極的に行われ、昭和4年、長崎、熊本で第一回の鏡台織物見本市を開いたのをはじめ、翌5年には、金沢、福井、6年には、松江、米子、7年には、大連、奉天にて、それぞれ鏡台木製見本市を開催、国内はもとより、大陸にまで販路を求めました。昭和8年には、鏡台が県の重要産業に指定されるまでになりました。

 

 

つぎは、「写真で見る歴史と変遷」へ

−徳島の木工−

CDのTOPページに戻る「阿波木工物語」の目次に戻るつぎは、「写真で見る歴史と変遷」へ