「阿波木工物語」―(4)鏡台の製造始まる |
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現在の徳島の風景から「祖谷」 |
渭東には、安宅役所の流れをくむこの造船、木工業の他、明治になってからは綿織物、農機具の製造が盛んになります。 ・始めは、大和町、安宅町に住む佐藤国太郎、東条房助、郡磯太郎の三氏が協力して、造船、建築、鏡台を始めて造るようになりました。そこで、ここに弟子入りが行われ、弟子が技術を受け継ぐようになりました。(渭東風土記) ・渭東の鏡台の始まりは明治20年頃であったでしょうか。このあたり一帯は建築大工が多く、当時の一日の賃金は18銭くらいから20銭でした。これではやっていけない、何とか少し収入を増やす方法はないものかというので、今は佐古の方に行っている佐藤国太郎と南福島の東條房次郎などが、箱を作って大阪へ持って行き、問屋の坂上商店で相談すると、鏡台にしてはどうか、それならば取り引きしようという話ができて製造をはじめました。どうやら建築より収入が多いので、親族中へすすめ、さらにだんだんと広まっていきました。(「阿波の秘法」鏡台五十年) ・阿波の鏡台が本格的に作られだしたのは明治25年からだといわれています。その昔、(中略)、一人の大工が浪速の芸者から、桐箱の上に鏡をつけてくれという特別注文を受けて”鏡箱”を作り、その芸者に納めたところ、他の芸者からも欲しがられたので、船大工たちが大挙して鏡箱製造に乗り出したとも伝えています。(朝日新聞徳島版「阿波の特産」) さらに、
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−徳島の木工− |