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「阿波木工物語」―(4)鏡台の製造始まる

現在の徳島の風景から「祖谷」

渭東には、安宅役所の流れをくむこの造船、木工業の他、明治になってからは綿織物、農機具の製造が盛んになります。
造船は木造船で、内海の運搬船用、沿岸漁業用として安宅地区の基礎産業となり、農機具では、水車、脱穀機があり、特に水車は業者12,3軒、年間1500台を生産、大正9年より11年にかけては、朝鮮にまで移出しました。また、綿織物では、海部ハナの発明による「阿波しじら」の隆盛により、一時、安宅地区には120軒を上回る機業者があって、国内はもとより、台湾、朝鮮、中国、インド方面にまで販路を広げました。しかしいずれも発動機の採用、機織の機械化により急速に衰微していきました。
そのなかで、伝統的な手工業であった木工業は次第に発展して、いわゆるアタケモノから戸、障子の建具に及び、機械を利用して大規模になり阪神方面に出荷されるようになりました。大工町で生産されていたタンスその他の家具の業者も次第に渭東に移り住む者が多くなりさらに明治18年頃には鏡台の製造がはじめられ、渭東では漸次木工業が主要産業になっていきました。
タンスは古くから製造されていましたが、鏡台の製造が徳島で始まったのはこの頃からとされています。しかし、諸説があってはっきりしていません。

・始めは、大和町、安宅町に住む佐藤国太郎東条房助、郡磯太郎の三氏が協力して、造船、建築、鏡台を始めて造るようになりました。そこで、ここに弟子入りが行われ、弟子が技術を受け継ぐようになりました。(渭東風土記)

・渭東の鏡台の始まりは明治20年頃であったでしょうか。このあたり一帯は建築大工が多く、当時の一日の賃金は18銭くらいから20銭でした。これではやっていけない、何とか少し収入を増やす方法はないものかというので、今は佐古の方に行っている佐藤国太郎と南福島の東條房次郎などが、箱を作って大阪へ持って行き、問屋の坂上商店で相談すると、鏡台にしてはどうか、それならば取り引きしようという話ができて製造をはじめました。どうやら建築より収入が多いので、親族中へすすめ、さらにだんだんと広まっていきました。(「阿波の秘法」鏡台五十年)

・阿波の鏡台が本格的に作られだしたのは明治25年からだといわれています。その昔、(中略)、一人の大工が浪速の芸者から、桐箱の上に鏡をつけてくれという特別注文を受けて”鏡箱”を作り、その芸者に納めたところ、他の芸者からも欲しがられたので、船大工たちが大挙して鏡箱製造に乗り出したとも伝えています。(朝日新聞徳島版「阿波の特産」)

さらに、
・明治18年から20年頃、東條房蔵氏と佐藤国太郎氏によって製造が始められました。東條房蔵の姉婿桜木守之助は大阪の南堀江で鏡台を製造していました。東條房蔵がたびたび大阪の方に行っているうちに製法を見憶えて、親族中にすすめました。それからだんだんと業者が広まりました・・・という説もあります。

 

 

水車の製造
揚水設備としての「水車」は、農民にとって大切な農具の一つでした。
この水車を作る水車大工が、城下の渭東地区(その中でも福島町中心)に居住していました。この水車大工だった東条房蔵氏が鏡台(西洋鏡台)の徳島市の創始者の一人だとされています。

 

タンスの製造
収納家具としての「タンス」は、その収納する物の種類によって、いくつかの種類に分かれます。写真のタンスは帳場(商人が店内の一隅で帳簿付けや勘定したりする所)に備え付けて帳簿や印判類を保管した帳場タンスの一例です。

 

徳島の洋鏡創始者の一人佐藤国太郎氏の建築した
王子神社(川島町、明治27年)

佐藤国太郎
徳島の鏡台創始者の一人とされる佐藤氏は、元は神に奉仕する宮大工でした。
この王子神社は、鏡台制作に転向する直前の仕事で、この後は、専ら鏡台の木地製作に専念します。

―徳島鏡台の発祥―

 

 

 

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−徳島の木工−

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