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「阿波木工物語」―(3)副収入から本業へ

現在の徳島の風景から「鳴門の渦潮」

安宅の造船所には、造船用のいろいろの木材が積み上げてありました。船を新造する場合には、大工奉行が設計図を作り、これを安宅目附に提出し、さらに目附が御船手方に伺い出て決済をもらい、それから工事にかかるという順序でありました。海軍の方は人事と軍事を中心に扱っており、造船が役場の東方、海軍が西方にあったので、東の奉行、西の奉行とも呼ばれていました。

使用する船の上げ下ろしは、沖ノ洲、安宅の二男三男すなはち非戸主の役目で、それが裸で働き、その二男三男には全て一人半扶持がつき、男子が13、4歳のどうにか髪が茂助に結えるようになると、一人半扶持がもらえました。それで、当時安宅では、背の高い頑丈な女が別婿であるとされていました。丈夫な児を産む、というのがその理由でありました。とにかく、男の子に10歳くらいからイトビンで申し訳の結髪をさせ、役所に出せば一人半扶持になったといいますから、競って”別婿”を娶ったのであろうと思われます。

コワ火といって、安宅役所には月に3回くらい、造船には使えなくなった木の切れ端や屑を掃除することがありました。これを安宅者が名前を申し出で、容れ物に入れて役人の検査を受けて家に持ち帰りました。検査とはいっても形式的なものであったようで、底のほうには十分使用できる木切れも多くひそんでいたといわれています。いわゆるお眼こぼしで、中には仕事の際に、木材の一部分だけ使用して、残りの部分は役所外の竹薮の中に入れておき、帰宅時に持ち帰った剛の者もいたといわれます。役所での勤務は朝8時から昼の2時ごろまででした。なにしろ、収入は少なかったから、この木切れを使っての木工品つくりは、彼らにとって最も手っ取り早い収入源でありました。

この家庭手工業は、徐々にではありますが発展を続け、明治維新を迎えます。そして藩制の廃止により失職した船大工たちは、生計を維持するためその経験を生かして、本格的な木工業を営むようになりました。

 

 

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−徳島の木工−

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