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「阿波木工物語」―(2)御船役場と安宅物

現在の徳島の風景から「阿波踊り」

阿波国微古雑抄によれば、諸職人の中に御細工人と言う者が5名あり、1人に四石五斗三人扶持という禄を藩からもらっていました。御細工人は、現在の明神町付近に住んで、武士の指物をつくることを仕事としていました。町人大工は東・西大工町にあって町人向けの指物、建築などをしていました。また、渭東の大工島(現在の大和町あたり)に200余軒の船大工が住んでおり、安宅には水軍の役所があって、船大工たちは昼間は安宅役所に出て船の建造、修理などにあたっていましたが夜は夜で、役所からもらって帰った木の切れ端を材料に内職をしてモロブタ、チリ取り、炭箱など、一般市民の生活用品を作っていました。これらが徳島の木工業の始まりといわれ、また、そこで作られた木工品は土地の名を取って安宅物と呼ばれていました。

「安宅」は阿波ではアタケと読み、飽猛きの謂です。昔、大船をアタケ丸といったことから起こったもので軍艦、水軍などを表しています。安宅役所は、はじめ常三島(現在の徳島大学工学部の近く)にありましたが寛永4年に福島に移されました。

安宅役所は、造船と海軍に分かれており、造船は御船役場が統轄し、安宅目附、大工奉行、下目附、手代、それに船大工その他が属していました。

船大工に対する手当ては、一日につき米一升五合の割合で十日勘定、鍛冶職などとともに、常傭の職人としては、最も低い身分、待遇であったと思われます。しかも、もともとあまり豊かでない阿波の国で、洪水、津波地震等が多かったためもあり、藩士に対する給禄の召し上げ、削減がたびたび行われています。薄給の船大工にとっては、より大きい生活問題であっただろうと思われます。

安永4年  藩財政窮迫により以後4年間給禄の十分の六を召上げ

天明3年  著侈禁令

天保8年  藩士に倹約令

弘化3年  以後3年間藩士の禄十分の三召上げ

安政6年  禄十分の三を削減

 

 

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−徳島の木工−

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