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「阿波木工物語」―(1)徳島の街づくり

徳島の街づくり
現在の徳島の風景から「眉山」

徳島駅の裏側にある小高い山(城山)を、以前は渭ノ山と呼び、そこに築かれた城を渭ノ山城(後徳島城と改称)と呼びました。

この渭ノ山を中心にして、徳島の市街を東西南北に大別し、一般には、それぞれ渭東、渭西、渭南、渭北と称されていました。徳島の鏡台をはじめとする木工業は、このうち渭東地区に発生し、それが発展して今日見る鏡台家具一大生産地・徳島へと成長したのであります。

この渭東の木工業が、いつごろから芽生えたかは明らかになっていませんが、おおむね、蜂須賀家正が、天正13年(1585年)阿波(はじめは一宮城に入っていました)に入り、後に徳島城と改められた謂ノ山城に移った翌天正14年頃からで、それまでの勝瑞城、一宮城、その他、各地にあった旧城下の職人、町人が徳島に移り住み、あるいは播磨、丹波、河内など、旧蜂須賀領から渡ってくるものが増加し、徳島が、名実共に阿波の政治、経済、文化の中心へと発展していこうとする時期であったと思われます。

家正は、一宮から徳島に移るに際して、渭ノ山城の修築と市街の整備をすすめました。城下は、北に助任を開拓また安宅島(現在の常三島)を築いて大岡に及ぼし、西は出来島を構築して田宮川を通じ、佐古の西方に堤を新築して鮎喰川を防ぐとともに佐古川を絶って吉野川に合流させ、南は法華川を開通して沖浜堤を築き、三条川(冷川)本流から来る激流をここで支え、沖浜川を埋めてこの付近から富田の南部を開拓し、東は住吉島と助任との間に掘割りをつくって鬼門堂に通じ、千切れ島(現在の福島)を修理しました。これでようやく徳島市街の基礎が出来上がりました。城の修築には、長曽我部元親、小早川隆景、比叡山の僧徒などが助力し、城と城下の町割りには、武市常三と林道感の二人がその設計にあたったといわれています。

当時、徳島、寺島、福島、住吉島、出来島、瓢箪島(のちに城の内西の丸に入ります)、常三島を、”阿波の七島”と呼んでいましたが、このうち徳島、寺島を内廊、福島、住吉島、出来島、瓢箪島、常三島及び富田、佐古、助任、大岡を外廊とし、これを御城下又は御山下と称していました。

新町橋、福島橋、助任橋の三つの橋には門台を設けて内廊への出入り口を守りその他には橋を架けずに全て渡し船によって川を渡るように、防禦策がとられていました。これによると、渭東地区は外廊の一部をなしており、福島橋の門台跡は、福島橋西詰め南側に突出した石垣として、当時の面影を残しています。

 

当時の川岸のイメージ(モノクロ)

 

■藩政期の面影

福島川は、徳島城の大手門である「鷲の門」の東方を流れる川で、藩主の参勤交代時の乗船にも使われた川です。その福島川の北浜側の土手と水門の石段です。明治以降は、材木の貯木場となっていました。

 

 

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−徳島の木工−

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